神戸港の150年の歴史を解説

本日は以前に書いた「兵庫津」の歴史の続きで、神戸港の歴史について書かせていただきます。
兵庫津の歴史が気になる方は、こちらの記事をご覧ください(^^)

神戸港の前身である「兵庫津」の歴史を解説
神戸といえば真っ先に港を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか?2018年に開港150年を迎えた神戸港ですが、それよりも前には「兵庫津」という港があったのです。今回は神戸の話をする上で外せない神戸港の歴史の第1段として、兵庫津について解説させていただきます。

兵庫津の記事では、慶応3年(1867年)12月7日に兵庫津から神戸港に移り変わったところまで書いてきました。
今回はその後の神戸港について書いていきたいと思います。

それでは次から解説していきます(°▽°)

江戸時代

©️一般財団法人神戸観光局

兵庫津は現在の地下鉄海岸線 中央市場前駅付近にありましたが、神戸港はその場所から少し東側に造られました。

なぜ神戸港は兵庫津から離れた場所に造られれたのでしょう?

実はそのことに関する資料は残っていないそうです。
考えられている理由で一番多いものが住民と外国人の衝突が起こらないようにするためです。
兵庫津付近は住民が多く住んでいたため、その場所を避けたのではないかと言われています。

そして、外国人の居留地となる場所に選ばれたのが神戸村です。
当時は、現在のフラワーロードがある場所に生田川が流れていました。
この川はよく氾濫していたため、周りに民家がほとんどなく畑や砂地が広がっていました。
その場所に外国人の居留地を造ることが決まり、その東側に外国に解放された神戸港が造られたのです。

よく氾濫するような場所によく居留地を造ったなと思われるかもしれませんが、近くに閉鎖された神戸海軍操練所があり、この施設が活用できたため、兵庫津よりも将来性があると判断されたようです。
そう考えると、当時の外国人の見立ては正しかったということになりますね(^^)

こうして神戸港が造られ、開港式典も盛大に行われました。
しかし、これから頑張っていくぞ!というときに悲劇が起きたのです。

開港した翌年の慶応4年(1868年)1月3日、戌辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍相手に追い込まれて破れました。
同年1月10日に新政府は江戸に逃げていた徳川慶喜の追討令を出し、京の幕府領の没収を宣言した。

これにより、神戸港を管理していた旧幕府の役人たちも脱出することとなり、新政府との切り替えもうまくいかないまま、神戸港は一時期、無政府状態になってしまったのです

そうした矢先に起きたのが「神戸事件」です。
行進中の備前藩兵の行列を横切ったフランス水兵を傷つけたことから始まりました。
詳しくは長くなるので書きませんが、この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占領するということまで起きました。
しかし、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で解決され、なんとか難を逃れたのです。
これが、外国人に「日本人=ハラキリ」というイメージを埋め込んだ理由の1つでしょう。

明治・大正時代

明治時代になり明治4年(1871年)に兵庫県は、イギリス人のジョン・マシャールを初代神戸港長に任命しました。

マーシャルは最初に神戸港の施設拡充に取り組みました。
明治6年(1873年)から1年かけて長さ1730mの石垣と税関、荷揚げ場を整備したのです。

同じ時期に大規模な築港計画を立案しました。
当時神戸港には防波堤がなかったため、台風によって大きな被害を受けることが考えられていました。
これの対策として、旧生田川と旧港川の河口付近に防波堤を建設しようとしたのですが、大蔵省の同意が得られなかったため実現しませんでした。

さらに、マシャールは神戸港での気象観測も始めました。
自分自身で毎日データを取り、そのデータから外国船停泊区域を策定するなどをしたそうです。

マシャールの活躍には驚かされますね(^^)
この方のおかげで、今の神戸港の基盤ができたと言っても過言ではないかもしれません。

大正6年(1917年)には開港50年を迎え、その時には全国のの貿易額を神戸港が占めていました
そして、港の造成も進んでいき、大正10年(1921年)にはくし形の新港第1突堤から第3突堤が完成し、近代的な港としての第一歩を踏み出したのです。

昭和時代

©️一般財団法人神戸観光局

神戸港の花火大会と言えば「みなとこうべ海上花火大会」が有名です。
その前身となる、みなと祭りの第1回が昭和8年(1933年)に開催されました。
しかし、昭和11年(1936年)には戦時色が濃くなってきたこともあり、花火大会は第3回で一旦幕を閉じたのです。

そして、終戦後の昭和23年(1948年)の第16回で、ようやく花火大会が再開されました。
しかししかし、神戸港への入港船が増加したことで、港内での花火大会は昭和35年(1960年)を最後にまたもや中止されることになりました。

その後、昭和46年(1971年)、花火大会に神戸市港湾局が主催者として参画することになり、この年にみなさんご存知のみなとこうべ海上花火大会の第1回目が開催されることになりました。

今年で第50回目を迎える予定でしたが、コロナウイルスの影響で断念することになり、寂しい思いをした人も多いことでしょう。

また、花火大会以外では、神戸ポートタワーの完成、メリケンパークのオープン、ポートライナーの開業、ポートアイランドと六甲アイランドの着工も昭和の時代に行われました。
昭和42年(1967年)には開港100年を迎え、昭和時代に今の神戸港周辺の街並みが整っていたっと言っても過言ではないでしょう(°▽°)

平成時代

この時代で忘れてはいけないのは、平成7年(1995年)の阪神・淡路大震災でしょう。

この震災で神戸港も大きな被害を受けましたが、2ヶ月後には摩耶埠頭でコンテナの積み下ろしが再開され、2年後には全面復旧し、同じ年に神戸港復興宣言が出され、早くも復興したと思われました。

しかし、震災前に世界6位の国際順位が、震災後には24位にまで後退することとなりました。
神戸港のコンテナ取扱量は震災後には震災前の半分の量になり、平成30年(2018年)にようやく震災前の量にまで戻しましたが、世界ランキングでは63位となり世界からも大きく遅れを取ることになったのです。

阪神・淡路大震災で落ち込んだ神戸港ではありますが、平成29年(2017年)には開港150年を迎えました。
このときに150年の記念事業として、メリケンパークのリニューアルポートオアシスの建設須磨海岸の再整備などが発表されました。
震災が影響で伸び悩んでいた時期ではありますが、今後の神戸港の繁栄が期待されますね(^^)

まとめ

本日は神戸港の歴史について、紹介させていただきました。
他にも出来事はいろいろあったのですが、長くなってしまうので、大きな出来事を中心に紹介させていただきました(^^)

現在はコロナウイルスの影響で、コンテナ取扱量も下がっていると思われます。
そんな時代ですが、平成時代で紹介した新事業や様々なイベントを行うことで、この逆行を乗り切ることに期待しています!
三ノ宮駅前の開発も進んでいるので、これからの神戸に益々盛り上がりを見せてくれるでしょう(°▽°)

この記事を見て神戸港に行ってみたくなった方は、ぜひ足を運んでみてください。
そして、感想などいただけると嬉しいです!

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