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神戸港の前身である「兵庫津」の歴史について解説 | 神戸みりょくとどけたい

神戸港の前身である「兵庫津」の歴史を解説

こんにちは!
今回は久しぶりに歴史について書かせていただきます!

神戸といえば真っ先に港を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか?
2018年に開港150年を迎えた神戸港ですが、それよりも前には「兵庫津」という港があったのです。

今回は神戸の話をする上で外せない神戸港の歴史の第1段として、兵庫津について紹介します。

それでは次から解説していきます(^^)

日本書紀、万葉集に登場

兵庫津の初登場は日本書紀に記載されています。
日本書紀には「務古の水門(むこのみなと)」という名称で登場しています。

記録としては、次のように残されています。
仲哀10年(西暦201年)頃に神功皇后が三韓征伐を終て難波へ向かっている途中、神戸あたりで船がくるくる回って進まなくなります。そこで、なぜ船が進まないのか、神託を受けるためにある港に船を停めました。

それが、務古の水門でした。
神功皇后の話は生田神社誕生の記事に書いていますので、興味のある方はそちらを参照ください(^^)

その後、万葉集で「敏馬の浦(みるめのうら)」という名前で紹介されています。
現在の阪神岩谷駅の南側にある敏馬の浦がその場所だったと言われています。
万葉集では敏馬の浦が入出船で賑わっていたことが書かれています。

大輪田泊として大活躍!

奈良時代

奈良時代には「摂播五泊」の1つとして大輪田泊が整備されました。
摂播五泊とは瀬戸内海から難波に向かう船舶が停泊した5つの港のことです。

瀬戸内海と難波の行き来は浅瀬を通って航行していたため、夜間は座礁して遭難する恐れがあります。
それを防ぐために1日ごとに泊に留まるようにしていたそうです。
そのため5つの泊は20km間隔で均等に作られていました。20km移動して停泊、20km移動して停泊。。。と繰り返していたわけです。

5つの港と現在それに当たる場所は次の通りです。

  • 河尻泊 :尼崎市神崎町附近
  • 大輪田泊:神戸市兵庫区
  • 魚住泊 :明石市魚住町
  • 韓泊  :姫路市的形町
  • 室生泊 :たつの市御津町室津


摂播五泊を整備した行基は良港であった大輪田泊を特に注力していました。
そのため港としての機能をどんどん充実させていき、発展していったのです。

平安時代

そして、平安時代には平清盛がさらに大輪田泊を盛り上げていきます。
平清盛に関しては別の記事で紹介しているので参照ください(^^)

平清盛が行っていた日宋貿易では宋銭という貨幣が使われていました。
当時国内では絹を使って物のやり取りが行われていたので、貨幣を使った貿易はとても珍しい物でした。
現在のお金の仕組みを初めて取り入れたのは平清盛と言っても過言ではないですね(^^)

しかし、いつの時代も新しいものを取り入れることに反発があります。
貨幣と言えど何も知らない人からすると、訳のわからない銅の塊でしかありません。
これにより物価が乱れるなどの問題が起きました。

そのため、鎌倉時代には朝廷により銅銭を使用した交易は禁止されることになったのです。

鎌倉時代

銅銭を使用した交易は禁止されたことが原因かはわかりませんが、鎌倉時代では日宋間の正式な国交はありませんでした。

この時代では平清盛が亡くなり、平家も滅びていたため、源氏が当時の政権を握っていました。
源氏が本拠地を鎌倉へ移したこともあり、当時の大輪田泊は細々と活動するだけで記録にはほとんど残っていません

大輪田泊が兵庫津と呼ばれるようになったくらいしか書かれていないそうです(^^;

兵庫津から神戸港誕生まで

室町時代

室町時代に入ると日明貿易の拠点となったため、再度賑わいを見せることになりました。
しばらくの間は調子が良かった兵庫津ですが、応仁の乱にまた活躍に陰りを見せていくことになります。

応仁の乱を一言で言うと、将軍の後継者争いです。
この戦いは東軍VS西軍で日本中を巻き込んだ争いになりました。

当然、神戸周辺も戦地となり、両軍が目をつけたのが当時栄えていた兵庫津です。
この莫大な利益を逃すわけにはいかないと、激しく争いを行った結果、兵庫津は壊滅してしまうのです。

そして、それに代わって堺港が貿易の拠点となったのです。

江戸時代

兵庫津が再び脚光を浴びたのは江戸時代です。

織田信長より兵庫の地を与えられた池田恒興は、兵庫津の近くに兵庫城を築きました。
当時、兵庫城を築いた場所の近くに花隈城があったにも関わらず兵庫城を築いたため、兵庫津を守るための城だと言われています。

その後、豊臣秀吉の命令で大坂の町に大きな船を近づけることが禁止になりました。
それにより大坂への輸送を担う港として兵庫津は再び発展していったのです。
さらに江戸時代後期には兵庫津に本店を置いていた高田屋嘉兵衛などが活躍したことにより、兵庫津はどんどん発展していきました。

そして、幕末が近い1867年12月7日(新暦:1868年1月1日)、西欧列強から開港を強く迫られ他こともあり、兵庫津の東隣に神戸港が開かれたのです。

まとめ

本日は神戸港の前身である兵庫津について紹介させていただきました。

本当は一気に紹介しようと思っていたのですが、長くなりそうだったので兵庫津編と神戸港編に分けさせていただきました(^^)
神戸港誕生後の話は纏まり次第紹介させていただきます。

繁栄したり落ち込んだりと、浮き沈みの激しい兵庫津でしたが、最終的にはみなさんご存知の賑わいのある神戸港に収まったわけです。
途中で出てきた平清盛も、神戸を語る上では外せない歴史上の人物なので、平清盛についてもどこかで紹介させていただきます(°▽°)

それでは神戸港編もよろしくお願いします!

コメント

  1. イグチ より:

    勉強になりました、ありがとうございます。続編楽しみにしてます。

    • KazukiKazuki より:

      イグさん
      コメントありがとうございます(^^)
      私も調べながら書いていったので、すごく勉強になりました。
      続編楽しみにしていてください。

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